世田谷ボロ市
ボロ市に見た売り買いのフォークロア
東京の世田谷のボロ市というのは、風聞によると信長の天正年間、北条氏政以来の楽市楽座の名残りだそうだから、いわばフリーマッケトの元祖だろう。いや、今はフリーマッケトも名ばかりで、高い場所代を要求するものが多いから、別種のものかもしれない。 もともと暮れの十二月十五日、十六日と新年の一月十五、十六日に年末年始に必要なものや、集めたボロ布を持ち寄って人々が集まったのがはじめり。ボロ布はワラといっしょに織りこんで丈夫なワラジを作ったり、パッチワークの着物や布団にも重宝したので目玉商品だった。裂いたボロ布を撚って糸状にし、糸と織りあわせた着物も「裂き織り」といって、丈夫で暖かい着物になる。近郊の農民にとって年末年始に必要な物と素材を得る大切な機会であった。 そのボロ市の直前に韓国の南倉から荷物が到着した。下関の港でその貧弱な梱包はばらけてしまい、しかたなく下関まで行って梱包し直して、何とか新年のポロ市に参加できた。原価は安かったのにこうして思わぬ経費がかかってしまった。出来具合はまあまあだ。古代の素朴な雰囲気が出ている。それに裏底には、ちゃんと「温陽面南倉」と漢字で彫ってもらっていた。 ボロ市の私の縄張り、一メートル四方ほどの場所の奥には、旗差し物が立てられ白地に墨痕あざやかに「慶尚南道温陽面南倉窯」と堂々と書いてある。デザイン科の先生に書いてもらった「南倉焼のこと」という説明書もある。ともかく人目にはつくと思うのだが、見ていってくれる人は少ない。ダンボールでひな壇を作り、上の段から出来の良いのを置いて八百円から三千円くらいで値段をつけた。値切られるのは予定ずみだ。成人式の明るい雑踏が目の前にあるのに店の前にはなかなかとまらない。ひな壇の後ろに座布団を敷き腕を組んで座っている。左右の店の活気に、つい引っ張られて私の顔はともすると横を向いてしまう。 足元のアスファルト塗装から冷え込みが、ぐんぐん上がってくる。ボロ市はもっとも寒い大寒と冬至の時季に開かれるから、寒いのは当然ともいえる。そういう時こそ賑わいを呼ぼうという一種の「冬祭」、太陽の復活を祈って大釜に湯を沸かす「湯立て神事」のような民俗(フォークロア)に一脈通じる年間行事だ。 寒いのでアスファルトにはダンボールを敷き、そのうえに座布団を置く。それでもガチガチと歯の音が鳴る。左隣の蛇のヌケガラ売りのおじいさんは七輪をまたぐらにかかえこみ、ときには日本酒で暖をとっている。右隣の耳かき作りいじいさんは椅子の下に後ろの床屋さんからコードを引かせてもらい渦巻き型の電熱器をかくしている。胸元にはカイロをしのばせてあるようだ。朝早くや雲が日をかくしている間は、こんな北極の状態で、体を動かす仕事があればよいが、売れない暇な商人には拷問のようなものだ。 天気がよく少しでも日差しが当たってくれると、地獄が極楽に変わったように風景が一変する。成人になった娘たちの晴着がまぶしく、つややかな頬が照り輝き、セーターが、いかにも暖かそうに膨らむ。そして冬日がありがたい天然ヒーターになると今度は眠気が襲ってくる。 「そこの社長さん、眠ってんじゃないの?ポカポカしてるからね、だるまさんになってちゃ売れないよ、何かしゃべりなさいよ」 通りすがりに親切にもこう言ってからかうお客もいる。まったくそのとおり、今のところ手も足も出ないだるまさんなのだ。 〜中略〜 ボロ市は私にビジネスの初心を思い出させてくれるだけでなく、そのイロハも教えてくれた。売り手と買い手の間の心理的な力学もそうだ。トイレや食事を考えてアルバイトに来てもらった近所の女子大生がいた。彼女の方が私より気の利いた振る舞いをする。二十歳そこそこのお嬢さんだが隣のおじいさん同様、私の先生になった。何故かというと、まず座り方がうまい。段ボールの紙の上に敷いた座布団にきちんと座って黙したまま、ひとつずつ、ゆっくりと壷を手の平に乗せ、いとおしむように右手の布で磨いていく。それがいかにも高価な貴重品という感じで手にするので、彼女が座っている間は見物人がつく。そして、たまには売れるのである。「物にたいする愛情」が現れるからだろうか。大事にされている物が大事に見えるあたりまえのことなのか。私は不器用だし物をていねいに扱うことが不得意だ。それでこの静かな女子大生にも感動をおぼえたことだった。 私の妻が座った時も不思議に売りやすかった。二人目の子がお腹にいて目立ちはじめたころだった。その姿で正座すると、踊りをやっていたおかげで背筋がすっと伸び、おまけに前がふくらんでいるから、お客が何故か、たじろぐというか、ゆっくりして急がない。そのうえで熱心に説明するから、しゃがみこんだ客は必ず値切るけれども大体買ってくれる。 こうしてボロ市は私にとって売り買いの開眼の場になった。初めてのボロ市の売上はやっと二、三万というところだった。その後、いろんな職場で輸入民芸の販売を伝票の書き方から修行をせねばならなかったが、ボロ市だけは毎年休まずに参加して腕を上げていった。次第に、学生時代に舞台を作っていたころを思い出し、のり始めた。売り物にかならず鳴物を加え太鼓をたたき鉦を鳴らしてお客を呼んだ。隣のおじいさんたちにも、売上も人気も負けないようになった。そしてそれを見届けるようにして何かと気を使ってくれた庭師のおじいさんは引退した。そのあとはテキヤさんが入り、玄米パンやら骨董やら古本やら若い衆が入れ替わり立ち替わりして売っている。耳かきのおじいさんも亡くなった。そしていつからか、その若い孫が替わりにいつもの椅子に座り「耳は神様の忘れもの」と同じセリフでお客に呼びかけている。 |